デマと真実の境界線

「常識を疑え」がデマを招く? 既存の知識とどう向き合うか

Tags: デマ, フェイクニュース, 陰謀論, 情報リテラシー, 批判的思考, 常識, 認知バイアス

誰もが耳にする「常識を疑え」という言葉

私たちは日常生活の中で、「常識を疑え」という言葉を耳にすることがあります。これは、古い考え方にとらわれず、新しい視点を持つことや、権威に盲従せず自分で考えることの重要性を説く、一見とてもポジティブなメッセージに聞こえます。確かに、歴史上の偉大な発見や社会を変える変革は、それまでの「常識」を疑うことから生まれてきました。

しかし、この「常識を疑え」という言葉が、時に根拠のないデマや陰謀論に人々を導いてしまう入り口になってしまうことがあるのをご存じでしょうか。なぜ、一見良い言葉が、誤った情報へと繋がってしまうことがあるのでしょうか。この記事では、その背景と、私たちがどのように情報と向き合うべきかについて考えていきたいと思います。

なぜ「常識を疑え」がデマの入り口になりうるのか

「常識を疑え」という言葉がデマに繋がりやすいのは、いくつかの心理的な要因と情報の特性が関係しています。

まず、既存の知識や専門家への不信感が高まっている社会状況があります。複雑な現代社会では、情報が溢れ、何が正しいのか分かりにくいと感じる人が増えています。政府やメディア、専門家といった既存の権威に対する不信感が募ると、「彼らが言う常識は本当ではない」「何かを隠しているのではないか」と考えやすくなります。

そこに「常識を疑え」というメッセージが加わると、既存の知識や広く受け入れられている事実を安易に否定する方向に心が傾いてしまうことがあります。そして、「常識の裏側にある真実」や「隠された情報」と称されるデマや陰謀論が、魅力的に映ってしまうのです。

デマや陰謀論は、しばしば複雑な現実を単純な善悪の構図に落とし込み、「一部の悪しき存在が私たちを騙している」といった分かりやすいストーリーを提供します。「常識を疑い、この特別な情報(デマ)を知った自分は、他の人より賢い」「真実に気づいた」という優越感や、同じ考えを持つ仲間との一体感も、デマを受け入れやすくする要因となります。

つまり、「常識を疑う」という健全な批判的思考が、「根拠なく既存のものを否定し、安易に代替のストーリーを受け入れる」という危険な思考へとすり替わってしまうことがあるのです。

健全な「疑い」とデマへの傾倒は何が違うのか

では、健全な意味での「常識を疑う」ことと、デマに繋がる「疑い方」は何が違うのでしょうか。

健全な「疑い」とは、単に既存の知識や情報を否定することではありません。それは、目の前の情報に対して「本当にそうだろうか?」「何か別の可能性はないか?」と考えを巡らせ、その情報がなぜ正しいと言えるのか、あるいは言えないのか、その根拠を探求する姿勢です。科学者や研究者が新しい発見をする際には、既存の学説(その時代の「常識」)を盲信せず、実験や観測を通じてその根拠を丁寧に検証していきます。

一方、デマに繋がりやすい「疑い方」は、根拠の探求よりも、まず既存の知識や権威を否定することから始まります。「常識」とされていることを頭ごなしに否定し、「それとは違う何か」を求めます。そして、その「違う何か」として提示された情報(多くの場合、検証されていない、あるいは反証されているデマ)を、根拠が薄くても「常識を破る真実だ」として受け入れてしまいがちなのです。ここでは、情報の真偽を確かめるための根拠や論理よりも、既存のものを否定したいという感情や願望が優先されてしまいます。

情報の海で賢く泳ぐために

「常識を疑え」という言葉に接したとき、私たちがデマに流されず賢く情報と向き合うためには、どのようなことに気をつければ良いのでしょうか。

  1. 立ち止まって考える: 「常識を疑え」と言われたとき、すぐに既存の知識を否定するのではなく、一度立ち止まって考えてみましょう。

    • 「常識」とされていることは、本当に根拠がないのでしょうか? 多くの人が信じていること、教科書に載っていること、専門機関が発表していることには、長年の研究や多くの人の検証に基づいた根拠がある場合が多いです。その根拠を安易に無視してはいけません。
    • 提示されている「新しい真実」の根拠は何でしょうか? 「常識」とは違う話を聞いたとき、その情報源は信頼できるでしょうか? 具体的な証拠や論理的な説明は示されているでしょうか? 一つの情報源だけでなく、複数の信頼できる情報源(公的機関、定評のある報道機関、査読済みの研究論文など)と比べてみることが重要です。
    • 自分の感情に流されていないか自問する: 「みんなと同じは嫌だ」「特別な情報を知りたい」「既存の権威が間違っていてほしい」といった感情が、判断を曇らせていないか、冷静に自分に問いかけてみましょう。
  2. 「否定」と「探求」の違いを意識する: 健全な批判的思考とは、単なる否定ではなく、より確かな情報を探求するプロセスです。知らないことや疑問に思ったことに対して、「これは違う」と決めつけるのではなく、「どうしてそうなるのだろう?」「もっと詳しく調べるにはどうすれば良いだろう?」という探求心を持つことが大切です。

  3. 知識のアップデートを恐れない: 「常識」と思っていることが、その後の研究で覆されることもあります。新しい、信頼できる根拠に基づいた情報が出てきたときには、自分の知識を素直にアップデートする柔軟性も重要です。これは、根拠のないデマを受け入れることとは全く異なります。

まとめ:健全な懐疑心を持つために

「常識を疑え」という言葉は、私たちに自ら考えることの重要性を思い出させてくれます。しかし、その言葉に盲目的に従い、根拠なく既存の知識や事実を否定することは、かえって誤った情報に囚われる危険性を高めます。

情報過多の時代だからこそ、感情や安易な否定に流されるのではなく、目の前の情報に対して「根拠は何か?」「どうしてそう言えるのか?」と冷静に問いかけ、多角的な視点から検証する姿勢が求められています。信頼できる情報源を頼り、自ら考え、探求する。そうした健全な懐疑心こそが、デマと真実を見分けるための確かな力となるでしょう。